はじめに
ミスチルの最新作「miss you」がCD発売から約1ヶ月後の11月8日、ダウンロード・サブスクリプション配信が開始された
CDのリリース日である10月4日の一週間前の9月27日にNetflixで配信された作品をご存知だろうか
ウェス・アンダーソンによる「ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語」(原題:The Wonderful Story of Henry Sugar)
連日ロアルド・ダールの短編集を原作とした中短編4作品が配信された
ほぼ同じ時期にリリースされたウェス・アンダーソンとミスチルの新作
同い年の2人(注)によるこの作品は驚くべきことに「ほぼ同じ」であることが判明した!
3つにまとめると
- 距離感の近さ
- パプリックイメージとは違う自己批評的、実験的な作風
- どちらも紛れもない、いつものアーティストの作品
それを今回ミスチルのmiss youのレビューを中心に検証していく
距離感の近さ
「くたびれた顔してるな」って顔を洗う度思うんだ 鏡なんて無くて良いや こんな自分をもう見たくない
—LOST
「miss you」を聴いて藤井保さんによるこのジャケット写真はこのアルバムをよく表していると思った
まるで桜井さんが霧が漂う森の中を「I miss you 」とあてもなく彷徨うかのようなアルバムだから
現在ミスチルはFCでも全く当たらない1と噂の全国ホールツアーを行っている
去年は30周年を記念した「半世紀へのエントランス」という大規模なドームツアーを行なっていた
自明のことだが、今回のアルバムはホールのような規模でだからこそより響くという判断だろう
「今回のアルバムは4人だけで集まりスタジオで作られた」とあるように、バンドサウンド自体がミスチルが目の前でセッションしているような印象を受ける
ファンの間では「Q」「DISSCOVERY」「深海」が近いものとして挙げられているが、個人的にはミスチルの歴史の中では関係者のみを集めたセッションやライブを記録したドキュメンタリーである「Split The Difference」がもっともしっくりくる
また距離感の近さもあり、前作「SOUNDTRACKS」で言えば外に遠くに向けて投げかけた「Brand new planet」2のような曲ではなく、内省的な自分を歌った内に向けた曲が中心だ
「永遠」「生きろ」を入れずノンタイアップの曲だけで構成しているのもそうだ
1曲目から「誰に聴いて欲しくてこんな歌歌ってる?」3(「I MISS YOU」)と歌われているが、それはそのままこのアルバムに向けられたものだろう
一方のウェス・アンダーソン
Netflixロアルド・ダール諸作は見れば一目瞭然だが、舞台っぽいというのが第一印象
いやむしろウェス・アンダーソンによるロアルド・ダールの短編集の高速読み聞かせのような感じ
もちろん引き絵のワンショットではないし、ウェス・アンダーソンらしいカメラ移動も出てくるが役者が何役も演じ、舞台の転換を意識的に使ったような演出も見られる
どちらもリスナーや観客から距離が近く、ミニマムな作品と言えるだろう
パプリックイメージとは違う自己批評的、実験的な作風
Party is over
過去に留まって現在(いま)を御座成って生きていくなんて 愚か者の愚行
ミスチルもウェス・アンダーソンも少しでも触れたことのある人なら表層的でもなんとなくのイメージはあると思う
”ミスチル”と言えばどんなイメージだろうか。色々あると思うが、ポップなイメージはあると思う。少なくともこのアルバムを聴いていつものポップな印象は受けない。
miss you発売直後はファンの間でも大絶賛というよりも賛否両論、というより戸惑いの声が多かったと思う(ただサブスクリプションが解禁され、音楽好きの人からは大絶賛されている印象)
自分も一周して今回はこういう感じなのかと思って、内容に反して聴きやすいアルバムだなとは思ったが、すぐには真意が掴めず、その後ずっと何周も聴いていた(結局聴いていんじゃねーか)
4年前の「Against All GRAVITY」ツアー4の時に、桜井さんはMCで少し冗談混じりにミスチルにとっての「GRAVITY」は「時間」だと言っていました
ミスチルのそういうロックな姿勢こそ僕はミスチルだと思うが、前作の「SOUNDTRACKS」で垣間見えたように、今作は完全に「時間」を受け入れた曲になっている
「LOST」「we have no time」「party is over」タイトルだけでも観念が見える
「アート=神の見えざる手」に顕著だが、自己批判的というか自分の葛藤や自問自答をそのまま歌詞にしたような曲が多いのも特徴だ
そういう点で「Q」5に近いというのもうなずける
「Q」は開き直った桜井和寿がゴジラのごとく「なんだって飲み込んで なんだって消化して 全部エネルギーに変えてしまおう」(友とコーヒーと嘘と胃袋)と色んなものをなぎ倒して道を進んでいく様がかっこいいアルバムだが
今回はテーマは似ていても洗練されたというより熟練の技が見られる大人なアルバムだと言える
桜井さんのソロアルバムのようだという評も見受けられるが、「自分自身が声になって、音楽になったような作品」と言っているようにMr.childrenというバンドを考えた時の強みをミニマムな音楽で最大限生かした作品になっている
それほど桜井さんの表現力が際立った作品となっている。同じ人が歌っているとは思えないバリエーション。一つとして同じように歌ってる曲がない
またミスチルで多いのは理想の自分や可能性に開かれた自分を仮想敵としている歌詞が多いが、大人という点では今回の「miss you」では自分の影を見つけて彷徨うように
「ティーンエイジャー」(Fifty’s map)や「歌ってた僕」(青いリンゴ)といった若い頃の自分、過去の自分、若い世代との比較が強く印象に残る
一方のウェス・アンダーソン
ウェス・アンダーソンすぎる風景展が開かれたり、AIでウェス風の作品が作られたりと近年パロディの対象にされるほど誰にでも分かる強い作家性を持っている
しかも作られたものを見て「確かにウェスアンダーソン作品に出てきそうだ」とみなが共有できると考えるととてつもない個性だと言える
そういったものをウェス自身は嫌悪しているという報もあったが、今回はあえてそういったものを排した作りにしているのだろう
「鳥」「ネズミ捕りの男」はこれを見てどう思えばいいのか…という戸惑いもあるダークな面も見える作品となっている
また上述したようにどれもが舞台のような作品になっており、舞台装置を使っていかに映画的にするかがウェス・アンダーソンの今回したかったことだと思う
短編3作品はどれも17分で、それを連日Netflixで配信するという形式も実験的である
どちらも紛れもない、いつものアーティストの作品
強い風が吹いてまた僕の背中を押した 背伸びをして答える また季節は巡る
青いリンゴ
とは言えミスチルもウェス・アンダーソンも最後まで聞けば、見ればどちらも紛れもないそのアーティトらしい、その人にしか作れないものになっている
「I MISS YOU」と繰り返して泣くようにはじまったアルバムは君にだけ届くように歌われたド級の傑作「ケモノミチ」を経て
後の3曲は「おはよう」を繰り返して締められているように、霧が徐々に晴れて朝を迎えるように君がそばにいてくれたという喜びを歌っている
今回のアルバムは「Mr.children史上最も”優しい驚き”に満ちている」とされているが、「ケモノミチ」までの曲は”驚き”を「黄昏と積み木」「deja-vu」「おはよう」の3曲は”優しい”を象徴しているのだろう
日常や半径5mの幸せを見つけるといういつものミスチル
「おはよう」なんかゴミ箱や冷蔵庫の中身を話しているだけなのに感動する
また「Fifty’s map ~おとなの地図」は言わずもがなだが、3曲目「青いリンゴ」は「まだ走り出す決意があること「We have no time」でもタイトルに反してそれでもやることが残っているという内容になっている
なんだいつものミスチルじゃないか
一方のウェス・アンダーソン
高速の台詞回しも昔は現場にストップウォッチを持っていき、セリフを早くいうように演出していたといういつものウェスだし
舞台と言っても元々学生時代は舞台もやっていたようだし、「天才マックスの世界」ほかもともと見られる要素である
また豪華俳優も含めたリッチな画作り、だけどハンドメイド感もある絵本のようなかわいい作品……
なんだいつものウェス・アンダーソンじゃないか
ミスチルもウェス・アンダーソンも吐き出すように内省的でミニマムな作品を作った
今回の作品も終わってみればらしさ全開の作品だったわけだが、次の作品はどちらもみながイメージするもっとらしさ全開の作品になるに違いない
おまけ
CDが発売されて間もなくの頃、朝の通勤ラッシュ時。僕の視線の先で50代ぐらいの男性が窮屈そうにスマホを操作し曲を選択していた
そのスマホには「miss you」のジャケットが見え、聞いていた曲のは「Fifty’s map ~おとなの地図」だった
その時、満員電車の中でもぼくの脳内で曲が再生される
男性はスマホを持ち、歌詞を確認したあと、その日に買わなければいけない買い物リストのようなものを表示させ確認していた
この光景を見た時にもうこのアルバムはそれで良いじゃんと思えた
ミスチルはいつでもぼくらの背中を押してくれるのだ